名古屋まちづくり公社の概要
土地区画整理事業促進・支援について

公社と区画整理の歴史

土地区画整理法の施行

旧都市計画法に基づき耕地整理法の規定を準用して行われてきた土地区画整理事業は、昭和29年5月20日土地区画整理法が公布され、翌30年4月1日から施行された。

名古屋市域の拡大が進む

昭和30年4月に猪高村(現在の名東区・千種区内)、天白村(現在の天白区)、同年10月に南陽町(現在の港区内)、富田町(現在の中川区内)、山田村(現在の西区内)、楠村(現在の北区内)の6町村が名古屋市に合併したことにより、名古屋市域は164.4k㎡から250.1k㎡へと拡大した。
その後も38年2月に守山市(現在の守山区内)、同年4月に鳴海町(現在の緑区内)39年12月に有松町・大高町(現在の緑区内)が合併し、市域面積は326.43k㎡(平成23年4月)となった。

市域変遷図参照

土地区画整理の気運が盛り上がる

昭和31年9月に名古屋市が政令指定都市となり、地方自治法の改正により、同年11月以降土地区画整理組合の設立認可等の権限が愛知県知事から名古屋市長へ移されたことなどにより、土地区画整理の気運が盛り上がった。 それにより組合による公共施設の整備や宅地開発が促進されることとなった。

新法適用後、名古屋市初の組合設立

昭和32年3月に高杉組合(中川区、面積11.6ha)が設立。名古屋市南西部に位置し、比較的低地であり水田や畑に利用されている土地であったため、事業途中の34年に伊勢湾台風によりやむなく事業を中断、工事のやり直し等大変苦労した組合であったが55年11月に解散認可を受けた。

新法後初の公社受託組合

当公社(当時の名古屋区画整理協会)における新法適用後初の受託組合は、昭和33年10月に設立された烏森組合(中村区、13.3ha)であり、測量調査・調査設計・換地設計など組合設立から解散までの事務、業務を一括して受託した。 当時は区画整理に対する金融機関の理解も薄く、資金を受けるについても相当の苦労があったが、保留地を円滑に処分して土地区画整理の実績を積み上げていった。その後、35年に大野木組合(西区、93.3ha)、上小田井組合(西区、169.6ha)、東山東部事業(千種区、17.3ha)、大廻間組合(名東区、7.6ha)から相次いで業務を受託した。

組合設立に対する技術援助

新法が施行されると、同法75条の技術援助の規定を受けて、昭和31年度から名古屋市では組合設立発起人からの申請に基づき、設立援助のため測量、権利調査及び設計の技術援助を行うこととしたが、そのうち権利調査と設計について公社が市から受託した。 公社としては都市計画上の観点から市の意向を汲みながら組合区画整理の効果が十分あげられるよう、経験と技術を生かして努力した。

新法施行に伴う組合解散相次ぐ

旧法で事業を行っていた組合は新法施行に伴い、昭和35年4月1日をもって解散することと定められた。
対象になる組合は大正時代に設立された港東組合(港区、119.2ha)から旧法により最後に設立された同朋組合(中村区、28.6ha)まで101組合(面積5,251ha)があり、昭和2年から17年の設立が最盛期であった。

伊勢湾台風による組合解散期限延長

昭和34年の伊勢湾台風により名古屋市南部は大きな風水害を被った。 これらの地域の7組合(遠若・明徳・土古・中島新町・中郷線・荒子・水袋の各組合)は被害のため期限までに換地処分を完了することは不可能との見込みとなり、建設省に出向き解散期限の1年延長を陳情した。 期限延長は法律改正を要するため容易に了承を得られなかったが、各組合の被害状況を説明し法改正に至り昭和35年3月3日延長の了承を得た。

「財団法人名古屋土地区画整理協会」に改組

名古屋区画整理協会は昭和6年に創立し、土地区画整理の発展と推進に努めてきたが、新法施行後組合区画整理の気運が盛り上がり、協会に事務の委託を希望する組合が多くなり、協会の事業量も年々増加の一途を辿ってきた。 名古屋市においても戦災復興土地区画整理事業の一部の事務を始め、土地区画整理について協会へ調査設計事務委託の希望があり、協会を任意団体から法人格を持つ協会に改組し、都市計画の実現と公共の福祉の増進に寄与しようと、財団法人組織とすることになった。
名古屋市から基本財産として100万円の出捐を受け、旧協会から1,440万円余の通常財産を引き継いで昭和36年8月3日に「財団法人名古屋土地区画整理協会」(愛知県知事設立認可36指令計第270号)に改組された。

無利子貸付金制度の創設

土地区画整理組合に対する無利子貸付金制度の創設に当たっては、昭和37年に開催された「全国土地区画整理協会連合会」総会で当公社(当時の「財団法人名古屋土地区画整理協会」)から提案・可決され建設省に陳情書を提出すると共に同連合会を通じ、立ち上がり資金獲得の運動が展開された。その後38年4月に土地区画整理法が改正され、組合が無利子貸付金を活用できるようになった。 この制度により組合区画整理の着手に際しての当面の問題は緩和され、組合の設立に拍車をかけた。

新規設立組合の増加

いわゆる高度経済成長期に入ると、土地区画整理組合の設立が相次いだ。協会も36年度は6組合、37年度に5組合、38年度に5組合、39年度に2組合、40年度に11組合を新規受託するなど、53年度まではほぼ毎年新規設立組合業務を受託していた。 この結果49年度には66組合、約3,900haと最大の受託面積となった。
この間には100haを超える大規模組合も数多く設立されているが、施行面積423haを擁する猪子石組合が設立され受託した。

名古屋環状2号線への貢献

組合区画整理が名古屋のまちづくりに果たしてきた役割、功績はあまねく知られているが、特筆すべきは名古屋環状2号線と地下鉄への貢献であろう。
名古屋環状2号線は、名古屋大都市圏における環状道路の必要性から、幅員25mの外郭環状道路として昭和32年に都市計画決定された。 しかし急激な市街化と自動車交通の増大に対応するため、昭和42年から43年にかけて自動車専用道路を有する幅員50mから60mの道路として都市計画変更された。 沿線の土地区画整理組合は、この土地を確保するため様々な工夫をしてその建設に協力してきた。
地下鉄建設に関しては、昭和44年に開通した東山線の星ヶ丘から藤ヶ丘への延伸部について、藤森東部・藤森南部・西一社・上社の4組合が用地を提供して建設を促進させた。

公園・緑地など市街地の基盤整備にも実績

名古屋市が昭和48年に策定した「緑のまちづくり構想」の指導方針に沿って、その後の設立認可組合から公園・緑地を施行面積の5%以上確保すると共に、下水道整備や処理場用地の確保、河川改修への協力などのかたちで、新市街地の基盤整備にも絶大な実績を残した。

バブル経済で保留地処分の活況

昭和63年頃から顕著となった地価の高騰により、土地区画整理組合の保留地処分が盛況となり、平成2年には公開抽選で20筆に対し1,784人が申し込むという事態も生じた。 このような活況も平成3年頃のバブル崩壊により沈静化し、厳しい冬の時代に突入することになる。

助成制度の制定・拡充

組合区画整理の事業内容は、時代の流れとともに充実し、名古屋市の良好な新市街地の発展に寄与してきたが、昨今の時代背景は組合の資金計画に大きな負担となってきている。
市は組合負担の軽減のため、一定条件に該当する組合や組合を設立しようとする者に対して「名古屋市土地区画整理事業助成要網」に基づき、技術的援助・設立費用補助金・特定公共施設整備補助金・舗装工事費補助金・公共下水道整備費補助金・橋りょう建設費補助金・防災調整池設置費補助金・公園整備費補助金を助成している。
なお、特定土地区画整理事業については国庫補助を導入しているため、別に「名古屋市土地区画整理組合補助金交付要綱」による補助を行っている。

「財団法人名古屋都市整備公社」から「公益財団法人名古屋まちづくり公社」へ

財団法人名古屋土地区画整理協会に改組してからも、名古屋の街づくりに貢献してきたが、行政改革の一環として平成14年4月1日に、財団法人名古屋都市整備公社に統合され、また、平成24年4月1日には、「公益財団法人名古屋まちづくり公社」となり、今日までに115組合の事業を受託してきた。今後とも、一層、総合的な街づくりに貢献していくことをめざしている。